日本人にとっての宗教について考えてみる
ともすると敬遠されがちな、日本人にとっての宗教とは何か考えてみました。
「宗教」と言われて思いつくのは…
新興宗教・しつこい勧誘・洗脳・狂信・怪しい…
もしくは、神社・お寺・結婚式にお葬式・クリスマス…
この2つは全く別の感覚のように感じます。
よく言われるのが日本人は「無宗教」。
海外の人にとって信仰がないのはとっても不思議なことのようです。
□日本人は「無宗教」なのか
これもありふれた表現ですが、「正月には神社仏閣に詣でクリスマスも楽しむ
宗教に無節操な日本人。」
私はこの表現には違和感があります。
大方の日本人には、「信仰」はないと思いますが
漠然とした神や超常的なナニカへの「敬意」「畏れ」などの気持ちがあります。
これは似ているようで、全く異なるものなので、「宗教」という言葉と
相容れないんじゃないかと思うとです。
キリスト教は人神を敬い、明確な「教義・戒律」があります。
仏教には「悟りに至るまでの道」やそれに付随する「教え」があり、
神道には特定の神はなく、「敬意」「感謝」「畏怖」などがあるのみで
教義や教えはありません。
□仏と神は何が違うのか
仏教は「釈迦という人が悟った」ので、釈迦の至った「悟り」へ近づく方法を
探求します。
悟りに近づくには、修業が必要です。
ほっぺたを叩いても3回までは許してくれるのが仏様です。
日本の神はというと、祟ります。
神によっては存在そのものが祟りだったり、少しでも気に食わなければすぐ祟ります。
「怒らないでください」と祀るのです。
日本の神はいくつかの種類に分類されます。(色々分類方法はありますが)
天候・病気・山などの「自然」を由来とする神と
菅原道真や崇徳上皇などの恨みをのんで亡くなった「人」を由来とする神と
『古事記』や『日本書紀』に見られる人為的に作られた神です。
自然が常に穏やかで、恵みをもたらす存在であることを祈り、
蹴落とした政敵が憤死すれば、相手の恨む気持ちを畏れて手を合わせることは
理解できます。
それが宗教かと言われると違う気がするだけです。
□宗教とは便利な道具である
神道つまり『古事記』は(おそらく)持統天皇が女性天皇を正当化するために作りました。
当時の倭国にいた力のある大王たちを弑逆し、その歴史を上手に神話に塗り替えて
持統天皇は対外的に自分の正当性を示し、天照大御神の化身として君臨しました。
その後、神々の子孫として力を持っていた豪族は、
当時の最先端科学「仏教」を武器とする豪族に敗れていきます。
時代が進むにつれてお寺は住民票替わりの名簿を管理する組織となり、
仏教は知識であるとともに、戦乱の世の心の安寧を保つ存在となりました。
宗教は古代において最新科学であるのと同時に
時には強力な洗脳ツールの1つです。
信仰心があれば、人民の心を踏みにじることも、煽り立てることもできます。
かのチンギスハーンがあっという間に大陸の大半を手中にしたのは、
征服した民から自治と宗教(思想)を奪わなかったからだという話もあります。
現在の日本では、戦時中の狂信的な洗脳というか強制の影響なのか
宗教は危ういものだというイメージがあります。
でも、本来の日本人の宗教観は「苦しいときの神頼み」や
「罰が当たった!」「死んだおじいちゃんが幽霊になって見守っていてくれる」といった
緩やかで、いろんな感情がMIXされたものなのだろうと思うのです。
□宗教は?って聞かれたら
私は神様の存在を信じます。
「万能の神がいる!」と思っているわけではなくて
合気道の前には「今日も怪我しないように見守ってください」だったり、
お参りに行けば「家内安全!無病息災!!宝くじ!!宝くじ!!!」といった感じの
ゆる~いやつです。
そして家に帰れば仏壇に手を合わせて「おばあちゃん、ただいま!」と言うし
結婚式では父なるナントカに向かって永遠の愛を誓いますが、縁もゆかりも信仰もない
遠い遠い存在です。
特定の信仰はないし、特定の神に帰依するつもりもないし、
特定の信仰を攻撃するほど興味もありません。
死後の世界なんて、天国も地獄も何もないほうがいいと思っていますが
死後の世界を思い描くこともある意味、宗教の始まりなのでしょうか。
そんなわけで、神は信じるけど信仰はない。
信仰はないけど、無宗教と言われるのは違う。
西洋と日本では捉え方が違いすぎて、「宗教」という概念では語れないのだ、
と思うことにしています。
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